1杯のオレンジジュースで敵のメンタルを破壊してしまう男、それが羽生さんです。
将棋にはタイトルがあります。たとえば「名人戦」というタイトル戦で勝つと、「名人」というタイトルが手に入ります。羽生さんが名人戦で勝つと、羽生名人と呼ばれるわけです。
名人戦というのは、ざっくり言うと「地球で一番将棋の強い人を決める大会」。80年ほど前に始まった歴史ある大会で、一年に一度しか行われません。将棋のプロはみんな名人になるのが夢。
そんな伝統ある名人戦は、百年以上続く老舗旅館などで行われます。戦う二人もまるで江戸時代のような着物やはかま姿。殿様の前で将棋をするような、ビシッとはりつめた空気。そこで人生をかけた大一番が行われます。
しかし羽生さんは、そこで対戦相手の目の前でオレンジジュースを飲むのです。
しかもストローでちゅうちゅう吸います。名人戦でオレンジジュースは、そうとう場違い。他の人は水かお茶です。空気読めよと思いますが、羽生さんは空気なんて読みません。どんなときでも自分の主張を押し通す。だから強いのです。
ちなみに羽生さんがオレンジジュースを飲む理由は、単純にオレンジジュースを飲みたいから。それだけ。羽生さんは、変ながまんをしないのです。
さて、ここで羽生さんと戦う挑戦者の立場になってみましょう。少年時代から将棋をし続けて、プロになって血へどはいてなんとかしがみついて、気づけばもう40代。そしてやっとたどりついた名人戦の舞台。絶対に負けられない。必ず勝つ! 気合いを入れて対戦相手をにらみつけると、そこにはオレンジジュースをちゅーちゅー吸ってる羽生さんが……。
むかつくでしょう。しかしそこで血がのぼって勝てる相手ではありません。オレンジジュースは甘くても、羽生さんの将棋は激辛。首をしめられるようにジワジワ追いつめられ、いつの間にか負けが近づいています。
がっくりと首をうなだれ、流れる涙。そして負けを認めて投了した瞬間、なんと勝った羽生さんはコップをわしづかみ、オレンジジュースをゴクゴク一気飲みするのです。それはまるで、百獣の王ライオンが、狩りを終え空にむかってほえるかのごとく。
勝利のおたけびならぬ、「勝利のオレンジジュース」。
挑戦者は、名人という夢がオレンジジュースと共に飲み込まれていくのを、まざまざと見せつけられます。完全なトラウマです。これから冷蔵庫でオレンジジュースを見るたび、涙が止まらないでしょう。
こうして羽生さんは、オレンジジュース1杯で敵のメンタルをこっぱみじんに破壊するのです。